昭和五十七年五月十日 朝の御理解


御理解第六十一節
神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておるのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。


 昨日の朝の御祈念の後に、鞍手の柴田さんがお届けをされますのに、神湊から毎日、日参をする世良さんという方がおられます。もうひと月あまりも参って見えたでしょうか。というのもお腹の中に、石がたまって、胃潰瘍、なんか幾つも病気があるんですね。それで入院をしてどうしても手術をせなならん、ということだったので、どうも手術だけはしたくないという話を聞かれて柴田さんが、そんなら合楽の金光様へ一心を立てて、ひとつ参んなさったらどうですか、というて、ま、お導きをされた方なんです。
 それが、昨日の言葉に、昨日ですか、一昨日ですか、柴田さんのところに電話がかかってきて、昨日病院にやらせて頂いたら、もう、そのどの病気ももう全然気もない。石がもう溶けてなくなってしまっとると。もう大変な広大なおかげを頂いて、まあ、これは柴田さんの対するお礼でもあろう、神様にお礼を申し上げてくれということでもあってであろうけれども、昨日お参りして見えるかと思ったら参ってきて見えませんが、これなんかはやっぱり、一心を立てたんですね。
 だから一心を立てるということは、そりゃ、もう神湊といやぁ、もう大変、毎日ご主人が自動車でここの前まで、私は知りませんでしたけれど、おくって来なさるそうです。それで、息子さんと二人で毎日その事をお願いをして、そしてま、ひと月あまりもそれこそ毎日、日参をされました。一心を立てなきゃ、出来ることっちゃありませんよね。
 しかも大きな何か、割烹料理やなんかなさっておられるから、最近ではその、お店の事なども願われるように、おかげでま、痛い苦しいもなくなってま、といので、ま、医者に行かれたんでしょ。そしたら一ヶ月前の病状、病状というのが、もうすっかり影も内容になっておるとい嘘の喜びをま、柴田さんにお礼お届けがあったのでございますが、これなんかをやっぱり、一心を立てたからね、どうしても一心を立てなきゃいけない。
 そこでんなら、この世良さんが今度はその、も、手術するのはいよいよ嫌だから、手術せんで助けてくれるならば、というので一心を立てられたのですから、今度はまあ、いうならば真の信心が分かりたい、と一心を立てられるところから、いうならこれは、いよいよ本当のま、いうなら神様が願っておられる信心の世界に住み替える事が出来るのじゃないでしょうか。
 これは皆さんの場合でもです、一つのことをやっぱ、願いを立てておりますから、一心を立ててこうやってならば、朝参りも出来りゃ、日参りもできるわけですけれどもね、昨日の朝の御理解じゃないけれども、その事を芯にして、信心をするということは、神様が私本意、私を中心にして働いておられる姿である。
 そこを、合楽では成り行き、いや自然との対決という風にもうしますですね。自然に起きてくる問題との対決ね、それに打ち勝つとか、勝とか負けるとかいう事じゃないけれども、それをね、とにかく、私のために働いて下さってあるんだからと、その問題をどうぞ、その問題から逃れたいじゃなくて、その問題を頂こうという、それを頂ききれた時に、自然との対決に破れずに信心が進んでいくということになるというのが、ま、合楽の信心ですね。
 日々の中に様々なも、本当に一言ここは云うとくがよかろうと云うような、事でもです、あの云わずに祈ってご覧なさい。いうた以上に必ずおかげになるですから、これにやっぱ、徹しなきゃいかんです。こんくらいなこつは、云うたっちゃよかろうということを云うとったらもうダメです。
 本当にもう云うなら、無口というかね、もうやっぱ、合楽の信心を頂いたら無口になりますよ。それがどうも人間心が強かったり、気の利いた人はどうしてもそこに、あのう、その事を対して、いいわけをしたりね、その事を上手に言い回しをするんですよね。
 ところが、それではもういらないその、自然との対決、自分に下さろうとしておるものを向こうにおし、人情で押し返すことになってしまう。それをいわば、黙って治める、それがなら、黙って治めるということが、まあ例えて云うと、一つのまあ、ちょっとした問題が起こったと致しますときなんかね、合楽で皆さんの場合は、日頃成り行きを尊ぶとか、大切にする、頂いておりますから出来ますけどね、もうこんくらいな事、こんな小さな事に失敗をしよる人が多いですばい。 こんくらいのこつは、云うたっちゃよかろうと云ったようなもんじゃないでしょうかね。云うことはいらんです。ね、そう云うときほどいよいよ自然との対決というか、神様は私中心になって下さるということは、私におかげの受けものを大きくして下さろう、私に力をつけて下さろうとする働き以外にないのですから、神愛としてまあ、受けられることになるのです。
 だから、今日しきりに思ったことですけれども、これほどの信心を私がまちっと何とか皆にも徹底して、ようく分かるような表現方法はもっとないものだろうか、世の中に様々な宗教、神様、仏様ち、ござるがね、も、本当に愚にもつかないことを問題にしたり、それで神経をすり減らしたりしておる人が沢山ある。その事に一生懸命の云うなら、水をかぶったり、断食をしたりしておる人さえある。
 もうどうか、そういう信心から、お互い人間が解消されてね、それこそ、天地日月の心を心とする生き方を容易う説かれておる合楽理念をもっともっと誰にでも納得のいく、分かるような、病気治しや、災難避けの事だけの事じゃないですよ。あの世にも持っていくことのための信心なんですよ。ということを本当にもっと、こう具体的に、て、云うても本当にもっと早く皆さんにも分かってもらえれる表現はないものだろうかといろいろ考えてみましたね。
 ところがこれは、結局本気で本当なものを頂こう、分かろうとする人ならば、現在合楽で説かれておる御理念の事がわかるのですけれども。本気で真の信心を頂きたいというなら、ここに真の信心、絶対の信心があるんだとね。
 昨日、今、今度ここで毎日の御理解を研修して、塗板に書いておる。あれを整理して今度、あれが記念祭の記念出版になるので、何人かの先生方が、それを改めてまた、見当してみて、それをここで研修の時に今読んでるんです。
 たまたま丁度末永先生があちらに行って、あちらには、もう大変ないろんな何というでしょうかね、云うなら、妙な信心が沢山あるわけですね、もうあのう、祈り殺すとかね、もうそれはすさまじいやっぱり祈念祈祷的な信心がいっぱいあるんだそうです。
 もう本当にそん為に、そのいけにえとしてから、いろんな生物を何かこうなんちいうかね。猫を殺して、犬を殺したりしてお供えをしたりといったようなね。まあ、そういう類のは、世界であっちこっちにやっぱあるんです。
 そういう一つの難儀から救われたい為に、例えば猫が祟っとるといやぁその猫を、犬が祟っとるといやぁ犬を拝むと。しかもそれをもう、それこそ熱烈なこう、火を焚いたり、太鼓を叩いたりしてから、その御祈念。よう映画なんかでやってますよね。頭人さん風の方達がそういう信心がいっくらもある。
 昨日も私ある方の書かれた御本を少し読んでもらったんですけども、非常にやっぱり本当の神様が頂きたい、本当の神様が分かりたいと、様々な修行をなさった先生方のお話を少しばっかり、読んでもらった。病気のために、あるところから参られたら、三百年前の御霊が助かってない。だからあんたん所はにはこの身体、上半身の病気が多いだろうといわれてみた所が、成る程誰か二人がそこひでめくらになんなさった。一人は頭の病気でなくなんなさった。やっぱり・・当たったわけですね。
 それでその三百年前のいろんな難儀な問題があってその首下がりをしてなくなったち、でその御霊がすがっておると。所が助かりたい一念で、それをそういう風に云われてしかもね、それが当たるわけね。成る程そう云われてみて、家にはあのう、上半身の病気の人が多いとこうね。
 それで例えば、なら、拝んでもらったり、ご祈祷をしてもらったりして、その御霊が助かった事によってなら、それがま、病気が治ったと致しましてもね、これはおかしな話でしょう。
 今の合楽理念で云うと、もうそういう部類の信心も沢山ありますけれども、それはやはりそれはそれなりにね、教祖の神様の場合であってもね、初めはよく御霊様が語りかけておられますもんね。教祖様に。段々御信心がお進みになるに従って、御霊関係などと云うような事は全然おっしゃられてない。もう、人間はとにかく、和賀心だけで助かるんだと、和賀心になる精進をするんだと。
 その和賀心にならせて頂くための精進とは、なら、合楽では御理念による生き方をね、身につけていきよるといつの間にか、我がとられ、我情がとられ我欲がとられてね、いつの間にか私の心の中に和賀心が育っていく。
 その和賀心の前にはね、それこそ一切の云うなら、難儀と云うものが、霜に煮え湯をかけるように、かき消すようにおかげを頂いて、それがそのまま力ともなって、あの世にも持っていけるというような信心だけしか説いていないですね。教祖様はそれで、んなら、和賀心和賀心と云うて来ましたけれども、どうすればなら、和賀心になれるかという事を説いて聞かせるものがなかったですね。
 ただ和らぎ賀ぶ心だよと教えるけれども、どういう信心さしてもらえばとね、そこに私思うのにね、一心を立てるならばです、も絶対のもの、間違いのないもの、云うならば合楽で一言で云うならば、天地日月の心になること肝要。
 そこで天の心とは、地の心とはという風にこうま、頂きますから私共はその事に専念するね。今申しますようにね、末永先生がその事に、こりゃ大変な国だなと、真の信心を説いてもわからん。ただ話を聞いて助かるだけじゃ分からん。どうして、そういうような、難儀な宗教と云うか、信心があるのだろうかと思うておって、御祈念さして頂いておるときに翻然として、心に開けたのは、そういう悪神邪神というか、そういうその変な宗教でもやはり、天地金乃神のお心の中にあるんだと分かった。それも神愛だとわかった。時にま、ほんと心が開けたといったような事が、昨日の発表の中にあったんです。ね。
 人間ちはですね。さ、その何代か、三百年も前の事が分かったか、分からないか知らないけれども、あなたの所のその長との所の家は、麦から家で、前にはこんな木があって、ち、云うごたるふうに云われるとですね。そういや私の方は、麦から家で、前には柿の木が一本あります。あ、それを見通しある。だからその人の云われることだから、やっぱり、だからそれもね、なら、天地の親神様は、程度の低い人を助けるためには、そういう手だてもあるのかもしれません。
 ま、私の信心を振り返ってみてもです、三十数年前にやはり、様々な動物霊なんかが、私にかかってくるといったような時代もあったんです。嘘じゃなかったですね。
 ですからそういう信心から、んなら、いよいよ真の信心を目指させてもらうということは、もうこれは一切、今御理念による以外にないとこう、私が確信すればするほどにです、この事を云うなら、それしたおかしなね、そういうま、病気が治りさえすりゃよいと云ったような、感じから起こってくる信心やら、というものをこれを打破させてしまう、なくしてしまうという手だてはないもんだろうか。
 そして真の信心を目指すには、ここには、こう云うような手だてがあるよ、こういう道があるよというのを、もっともっと皆さんに徹底して分からせる手だてはなかろうかと、私は今日、思うたがね、本当に、真の信心が頂きたいという一念を起こさなければ、私が云うておることは、こっちの耳から聞いて、こっちの耳に抜けてしまいよるですね。
 その証拠には、実行に移さんです。黙って治めると云うても、こんくれなことは、云うたっちゃよかろうで云いよるです。徹底しないです。こげん容易う。その気になれば、こんなに容易い事はないのだけれども、いわゆる真の信心から、ずれていっておる。ここは天の心で、地の心で、ここは日月の心で通し得られるけども、それがなら、本当に真の信心を一心に求めてから、求めるならばです、合楽で云われる、云うなら、お話の全てが皆さんの血に肉になっていくことでしょうね。
 だから私としては、も、こんな、もう本当に噛んで含めるようにして説いておるつもりなんだけれども、それを頂こう、本気で頂こうという気がなかったら、ダメです、だということがわかりました。
 だからね、一心を立てればという、その今の神湊から参ってきた、ひと月間、一心に親子三人で参って見えた。おかげでそれこそも、石もなくなっとる、胃潰瘍の方もよくなってる、何とかち、ま、いっちょ病気があったね、それがもう、それこそお医者さんのお世話にならんで手術せんで済んだ。もうその喜びをま、お導きの柴田さんにお礼があった云うが、毎日参って来よんなさったが、もう昨日から参って来なさらんから、もう医者からもう大丈夫といわれたから、も参らんでよかと、まあ、思いなさったわけでもなかろうけれども、じゃなかろうかと思うて、昨日世良さん参って来なさったか、参って来なさったかて、聞くけど参っちゃ中ですね。
 だからそういうなら、病気治しなら、病気治しだけの神ならばです、今まあ、それこそ巷にある様々な宗教ね、でも助かるかもしれませんけれども、治るかもしれませんけれども、また、中には霊能者の云うなら、千里眼的な人もあるのですから、云われてみれば、ポクポク当たるといったような事から、そのおかげを頂きたいといったような、信心から、そういう信心はもうね、もうかなぐり捨ててですよ。
 云うならば、真の信心一本に、本当に真の信心が分かりたいと一念を起こしたら、日々の合楽の御理解はもう本当に、それこそ、ね、喉から手がでるほどしに求めておることが与えられるのですから、それが血に肉にならんはずがないです。
 ところが、おかげ頂きたい方が大きくして、真の信心を頂きたいというのは、小さいから、よしよし、こんくれな事はよかろうで、教えを徹底して実験することを怠る事になるのですね、一心を立つ
 私は先だってからも、聞いていただいたように、天地は流行る事も終わりもないとね、云われる程しのおかげですから、金光様の御信心をさしてもらえば、そういうおかげが受けられる。親の代よりも子の代と伝わっていくようなおかげも頂けるのが金光様の御信心なんですけども、その金光様の御信心をです、合楽ではいよいよ、その気になれば誰でも頂けるということは、本気で真の信心を頂きたいと一念を燃やしたら、も、合楽の教えは真の信心の手だてばっかりなのですからね、たまには、云うなら度胸のいることもありましょ、ね。たまにははぁ、これを修行と頂くことは辛いこともありましょね。
 けれども、真の信心を頂く事のそれが過程であるとするなら、それを頂き抜く。いわゆる真の信心を頂く事のそれが過程であるとするなら、それを頂き抜く。いわゆる自然とのそうした、対決において、そのね、それに打ち勝っていく信心がなされて行く。そこに天地の心が心として自分の心の中に頂けてくるようになる。
 まあ、昨日の御理解で云うと、一切どう云うような事であっても、私中心に神様が働いておられるんだと云うような事が本当に悟れたらです、もう問題は全然なくなってくるんです。ただ、それこそ、私は、昨日一昨日、有り難い有り難いで過ごさせてもらったようにね、ただ、あるものは、有り難いというものだけしかないようなおかげが、頂かれる、私のために神様が私を中心に働いておって下さるんだ。
 それが信心のない間は、辛いことだ、腹の立つことだと思うおった事柄までがね、一切有り難いと受けられる。そういう信心であってですね、天地の親神様が、私共に願っておられる信心とは、おかげとはそういうおかげなんだと思うです。 今日、私はこんな、昨日、いろんなそのう、話を聞いてですね、そういう信心がなら、金光教の中にもいろいろあるって、御霊様を拝む先生もありゃ、ね、ただ、手で撫でてあげて病人がどんどん助かっておるという教会もあるのですね。というてなら、こう頭脳だけの信心というかね、云うなら、頭でっかち的な事だけを教えて、いっこう血肉の通うた神様を密接する事も出来ないような、信心も教会もあるです。
 合楽の場合は、それそこ、本当に本気でね、その気になれば、それこそ、神様のお身体触れるようなね、突っつけば血が飛び出るような神様を目の当たりにして、皆さんは信心の稽古をなさっておられる。その稽古の焦点がですね、折角、一心を立てるならですね、この事を持って真の信心が分かりたい、今難儀な問題があるでしょ。その難儀な問題を通して、真の信心が分かりたいというときに、それはもう、難儀でなくなってくる程しの心が開けてくるというようなね、ところに焦点を、本気での、真の信心が頂きたい、分かりたいという一念を出さなければ、その一心を出さなければ、私が、どんなに噛んで含めるように本当の事を云うても、教えても、私は、皆さんのそれが血に肉にならないと思うね。
 今日はその一心を立てるということ、真の信心を分かりたいという一心をどうでも出させて頂きたいと思うですね。             どうぞ